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セナ、ウィリアムズ行きの切符を2年早く手にしていた
非力なコスワーズエンジンで最強軍団ウィリアムズ(右2台)を抑え切って優勝したセナ(左)。伝説となった93年雨のドニントン(C)DPPI
 アイルトン・セナの命日の5月1日、また大きな歴史的エピソードが発掘された。セナは最後のチャンピオンを獲得した1991年の秋の時点で、すでにウィリアムズ移籍の契約書を手にしていたというのだ。それを翻意させたのは、当時のホンダの川本信彦社長だった。
 セナのマネージャーだったジュリアン・ジャコビは、Beyond the Gridに対して次のように話した。
「アイルトンはウィリアムズへ行きたがっていた。しかしホンダへの忠誠を守ったんだ。彼の本能は早くウィリアムズへ行くべきだと告げていた。しかし彼は、とくに当時ホンダの社長だった川本さんへの忠誠心があった。彼とはとても親しかった。ホンダとアイルトンは1988年にいっしょにマクラーレン入りし、3回のチャンピオンを勝ち取ったからね」
 しかし91年にはルノーエンジンが大きなパワーを発揮し、ウィリアムズのFW14は最先端のシャシー技術を完成させつつあった。この年ナイジェル・マンセルは中盤戦から5勝、リカルド・パトレーゼは2勝して、その勢いは明白だった。セナは序盤4連勝の貯金でなんとか逃げ切ったにすぎなかった。
 ジャコビは1991年8月25日ベルギーGP決勝の朝、マクラーレンとウィリアムズの2通の契約書をセナの前に提示したと証言した。
「彼は3回目の選手権を勝ち取った1991年の後半には、すでにホンダは以前のホンダではないと本能的に感じ、将来に不安を持っていたんだ。そこで91年、たしかスパで、私は2通の契約書をアイルトンに持っていった。一通はマクラーレン、もう一通はウィリアムズだ。アイルトンは、自分はウィリアムズへ行くべきだとわかっていた。どちらの契約書もサインすればいいだけになっていた。日曜の朝に彼はウィリアムズのほうにサインするだろうと私は思っていた」
 しかしセナは前日深夜にホンダの川本信彦社長と話し、慰留されていた。後年から振り返れば、まさに歴史を変える決断だった。
「彼は夜のうちに日本の川本さんと話していた。そして日曜の朝、こう言ったんだ。"もう一年残る"と。だから92年はマクラーレンに残った。しかし92年の時点で(ウィリアムズへ)移籍していてもおかしくなかった。もしそうなっていたら、ナイジェル(・マンセル)はそこにいなかっただろう。そして(セナが)チャンピオンを勝ち取っただろう。しかしアイルトンが移籍しなかったから、マンセルが残った。とにかく川本さんが彼を説得して残留させ、ホンダも供給を続けた。とても難しい決断だった。しかし最後に決めるのは本人だ。私たちにできるのは選択肢を用意することだけだった。結局、彼は忠誠を選んだ」
 しかしホンダはその92年かぎりで撤退。セナは1年休養か続行か迷った末に、コスワースエンジンになったマクラーレンに残留した。
「ホンダは撤退を決断したあと、たしかロン(・デニス、チーム代表)に話すより3カ月早くアイルトンに話したんだ。彼は落ち込んでいたよ。結局、彼は1993年に走る場所を探さなくてはいけなかった。93年に走らなかった(休養した)可能性? その寸前だったよ」
 セナが92年にウィリアムズに移籍していたら、たしかに歴史は変わっていただろう。マンセルとアラン・プロストのチャンピオンはおそらくなかった。
 しかし、ライバルの後塵を拝した苦悩の2年間もまたアイルトン・セナの物語の一部だ。そして川本社長の説得に応じて残留を決めた先に、伝説的な93年雨のドニントンの走りがある。非力なコスワースを積んでもセナはセナであることを見せてくれたのだ。